このように思ったことはないだろうか?
「なぜ子どもは生まれてくるのか?」
このようにお伝えすると、「え、この人なにを言っているの?」と思われるかもしれない。
しかし、不思議なのだ。
欲しいときに子どもは来てくれず、ふとした時に子どもはやってきてくれるのだから。
我々夫婦は結婚して、9年目になる。
不妊治療のかいがあってか、結婚8年目でようやく息子を授かった。
とても長かった気がする。
結婚して2年が経ち、年齢的にも不妊治療しかないねということで、不妊治療が始まった。
しかし、不妊治療を頑張っても頑張っても、子どもは来てくれない。
そこから5年間頑張ったが子どもはやってきてくれないので、僕は半ばあきらめていた。
妻との二人暮らしを前提にライフプランを考えていたところ、6年目にしてようやく授かったのだ。
不思議であった。
そんな時に、このようなフレーズに出会ったのだ。
それは小林正観さんの著書
内に記載されている言葉である。
すべての子どもは「母親を励ますため」に生まれてくるらしい
心にグサッときた。
なぜなら、息子を授かる1年ほど前から、妻がこのようなことを言うようになっていたからだ。
「もしこれから先、子どもがいなくて、さらにあなたまでいなくなったら私一人ぼっちになっちゃうのか。さびしいなぁ。」と。
しきりに妻がさみしいという表現をしていたのを思い出したのだ。
そんな矢先に、息子がやってきてくれたのである。
本当に不思議だと思った。いや今でも感じている。
まるで妻を励ますかの如く、息子がやってきたのだから。
そこで今回の記事では、私の経験を踏まえて、すべての子どもが「母親を励ますため」に生まれてくる意味について考えていくのでぜひ最後までお付き合いください。
結論:さみしがり屋の妻を守るために息子がやってきた
大家族で幼少期を過ごした妻。
かたや、典型的な核家族で、共働きをしている家庭で育った私。
2人の考え方はとても正反対だった。
私は一人の時間が好き。妻は誰かといる時間が好き。
私は自分が良ければそれでよいという考えだった。
しかし、妻は自分に関わる人が幸せになることが、自分の幸せだという考えを持っていた。
まるで正反対だ。
でも、妻と出会って良かったと感じている。
もし出会っていなかったら、人のことを考えられず、自分の事ばかりに目が行く人生だったと思うから。
そんな真逆な二人であるがゆえに、子どもがいない生活に対しても考え方がそれぞれ違ったのだ。
私は二人で楽しんでいけばいいんじゃないの?と楽観的に考えていた。
妻は二人だけではさみしいと常日頃から言っていた。
生物学的にもやはり男性の方が女性より寿命が短い。
だから、私が先にいってしまう可能性が高いのは事実だ。
妻は自分一人になった時がさみしいのだと。
それもそのはず、幼少期から常に家族がいて、一人でいる時間などなかったからだ。
誰かがいて当たり前の人生だった。
その当り前がなくなるかもしれない。
そう思うと妻がさみしくなるのも分かる気がした。
しかし、私の寿命をコントロールすることなどできない。
先の事は誰にも分からないから。
そうこうするうちに月日が流れ、結婚してから7年が経った。
私は半ばあきらめていた。
不妊治療も妻ばかりがつらい思いをするだけで、成果が上がらないからだ。
それならいっそのことやめて、二人で生活していくことを考えた方がいいのでは?と思うようになっていた。
でも、妻は違った。
不妊治療をあきらめなかったのだ。
やはり、さみしいのが嫌だったらしい。
どうしても子どもが欲しい。家族を増やしたい。と願い続けた。
そんな妻の頑張りのかいもあって、ついに息子がやってきてくれたのである。
にはこのようなことが書かれていた。
小林正観さんは40年間に22人の「生まれる前の記憶を持った子ども」に会ったことがあると。
その子供たちが共通して言ったことは
- 「上からお母さんを見ていた」
- 「お母さんがさみしそうだから、話し相手になってあげようと思った」
- 「お母さんを元気づけるために生まれた」
まるで嘘のような話だ。
しかし、自分の境遇を考えると本当ではないかと思ってしまう。
息子はさみしがっている妻をはげますために生まれてきたのではないか?
と。
息子が生まれてきてから、妻はさみしいという言葉を発しなくなった。
育児で忙しいというのもあるのだろうが、心が満たされたのかもしれない。
男としては、息子に嫉妬してしまうが。
だが、やはり子どもは上から母親の事を見ていて、さみしがっている母親を助けたいと思ってやってきてくれるのだろう。
本当に感謝しなければいけない。息子にも妻にも。
子どもは試練に耐えられてさみがっている親にやってくるのかもしれない
小林正観さんの言葉に一つ付け加えるなら、「試練に耐えられる状況になったら子どもはやってくる」という法則もあると思う。
なぜなら、息子がやってきたタイミングが本当にこの時しかないだろうというタイミングであったからだ。
我々は現在長野に住んでいるが、3年前まで愛知にいた。
私は自営業で夜遅くまで働いていた。
妻も通勤に1時間半かかる場所で働いていたので、平日帰ってくるのが遅かった。
つまり、平日の夜はほぼ顔を合わせない状態の家庭だった。
だが、週末に登山をしに長野へ行ったり、旅行に行くという日々を過ごしていた。
今思うとあまり安定した生活ではなかったと感じる。
そして、3年前に妻の故郷である長野へやってきた。
だが、
- 妻は新しい職場で大変。
- 私は長野で新しく事業をおこして大変。
という感じで、そこから2年間は、不安定だった気がする。
長野に来て3年目にしてようやく、安定した穏やかな生活になった。
結婚して8年目にして味わう穏やかさだったと思う。
そんな矢先に息子がやってきてくれたのだ。
年齢的にも、経済的にも、今しかないというタイミングで。
子育ては親育てとも呼ばれている。
つまり、子育ては試練ともいえるのだ。
我々夫婦は、今までの生活を考えると、そのような試練を与えても耐えられなかったと感じる。
そのような家庭には子どもはやってこないのかもしれない。
なぜなら、子どもは上から様子を見ているのだから。
私の想像の話になってしまうのだが、もしかすると子どもは上からみて、この家庭なら試練に乗り越えられそうだ!だから、行ってもいいかなと判断しているのかもしれない。
それに加えて、妻がさみしがっていれば、よりなおさらなのかと。
乗り越えられない試練はない。
けれども、そもそも試練に耐えられなければ、試練を与えられることすらないのでは?と最近思うようになった。
おわりに
子どもに対して、怒鳴ってしまったり、頭ごなしに怒ってしまう親が非常に多いように感じる。
しかし、小林正観さんの言葉を思い出していただきたい。
すべての子どもは「母親を励ますため」に生まれてくるらしい
あなたを励ますためにやってきてくれているのである。
- あなたがつらいとき
- 困っているとき
- 悲しんでいるとき
子どもは何気ない会話で励ましてくているのではないだろうか?
そんな子どもに怒鳴れるだろうか?
説教がましく怒れるだろうか?
子どもは親を励ましてくれる最高の存在だ。
そう考えたら、子どもに対する接し方も変わってくるはずだ。
- 怒ることは自分のために行うこと
- 叱ることは相手のために行うこと
子どもの事を考えるのであれば、叱れる親になりたいと私は思う。
なぜなら、子どもは我々を励ますために生まれてきてくれるのだから。
もし子どもに対して、感情的になってしまいがちの方はぜひ小林正観さんの書籍「ありがとうの奇跡」を読んでみてください。冒頭から嘘だろ!?ということが書かれていますが、読み進めていき自分の人生と重ね合わせてみると、正観さんの言葉は真実であることが理解できます。そして、子どもへの接し方も変わるかと。そんな素敵な書籍をぜひ手に取って読んでみてください。
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ありがとうの奇跡 Kindle版
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